全国の百貨店(デパート)を直接訪ね歩き、撮影し記録に残します。そして時々旅の情報も紹介します。

2025-04-30

徳島『丸新百貨店』跡 (1995年3月22日閉店)

徳島市の商店主たちが集まり1934年(昭和9年)324日新町百貨店を創業、翌年105日に丸新百貨店に商号変更。徳島県で初めての本格的デパートとして最盛期には8,000㎡弱の売場面積で116億円を売り上げる繁盛ぶりで、週末は行列ができるほどの人気だった。19802月期売上高97億円、売場面積7,898㎡(1980年度百貨店調査年鑑)。しかし、徳島駅前に出店を競い合ったそごうが3倍の売場面積で1983年に開業すると売り上げが半減し1995年(平成7年)322日閉店。東新町商店街もあっという間にシャッター通り化した。跡地は訪問当時公園だったが2024年現在は阿波銀行本店ビルが建つ。2012年徳島空港にあった売店も既に閉店している。20175月訪問。 2025年4月写真追加。

2025-04-28

『西新岩田屋』跡 (2003年4月25日閉店)

1981年(昭和56年)626日、福岡市営地下鉄西新(にしじん)駅前の西新エルモールの核店舗として開店。ピーク時には140億円を超える売り上げが半減し2003年(平成15年)425日閉店。その後ショッピングビルの「プラリバ」として再スタートするも2016年に部分解体され、現在はタワーマンションと商業施設の複合ビルになっている。202310月訪問撮影。2025年4月画像追加。

創業90周年を迎えた 小倉『井筒屋本店』 

1935年に創業し翌年(昭和11年)106日開店した小倉井筒屋。売場面積55,897㎡。グループ全体での20242月期新会計基準売上高225億円。コロナ禍前の売上を上回り営業利益、経常利益ともに9億円を計上。減資により中小企業となるも累積損失を一掃し財務諸表もすっきりさせて本店への経営資源集中による経営再建が一段落。コロナ禍前に不採算店の整理が完了していたこととスペースワールド跡地にできたイオンの巨大S.C.「ジ・アウトレット北九州」との差別化戦略も功を奏していると分析。2025年に創業90周年を迎えた北九州市唯一の生き残り百貨店として質を追求する新たな挑戦に期待。井筒屋アプリも注目。デパ地下・お菓子の量り売りコーナーや8階ファミリーレストランも健在。平日でも多くの人で賑わう北九州市民に愛されているデパートです。2025年2月期売上高482.7億円(既存会計基準換算)。所在地:北九州市小倉北区船場町1-12025年4月訪問。

小倉 『かねやす百貨店』跡 (1954年10月閉店)

ルーツは文久年間創業のかねやす米穀店。店舗を田町から魚町に移し慶応年間に呉服商となる。1920年(大正9年)3月、兵庫屋に次ぐ小倉市2番目の百貨店を創業。1936年(昭和11年)11月鉄筋7階建ての新館が完成。戦時中には現存する坊空監視哨が屋上に置かれた。1952年(昭和27年)の大火で被災し井筒屋や玉屋の支援を受けて再出発するも経営が悪化、195410月閉店破産した。残った新館は雑居ビル「ワシントンビル」として現在も活用されていて屋上には今も稲荷神社がお祀りしてあるそうです。所在地:北九州市小倉北区魚町3-1-820254月訪問。

2025-04-27

『飯塚井筒屋』跡 (2009年3月31日閉店)

1936年創業の丸神百貨店を買収、井筒屋初の支店として1949年(昭和24年)開店。所在地:飯塚市本町9-171965109日より「飯塚井筒屋」として分社化された。2007年の売場面積3,899㎡。20072月期売上高17.8億円。飯塚市内の長崎街道に面した繁華街の中心にあって筑豊唯一の百貨店として営業していたが業績悪化で2009331日百貨店としての営業を閉店。.同じ場所で「井筒屋サロン」として小型化した後20181031日閉店して郊外のイオン穂波S.C.で井筒屋・飯塚ショップとなる。さらに、2023729日には、飯塚駅近くにできた「ゆめタウン飯塚」1階に移転。井筒屋本店のサテライトショップとしては大型で、ギフトや食料品だけでなく生活雑貨や衣料品も扱い、筑豊最大の都市・飯塚(人口12万)の百貨店ニーズに応えており、ゆめタウン飯塚の魅力のひとつとして賑わっている。20254月訪問。

『岩田屋戸畑店』跡 (1982年2月28日閉店)

北九州5市が合併する前から百貨店がなかった戸畑区に岩田屋が1965年(昭和40年)429日出店。売場面積4,380㎡。19772月期売上高28.4億円(1977年版百貨店調査年鑑より)。しかし、先発百貨店のあった小倉や黒崎との競合に敗れて1982年(昭和57年)228日閉店した(昭和58年発行北九州市史より)。その後、業態変更して地元スーパーが出店したりファッションビルとなったが結局撤退。建物は解体されて現在はマンションが建っている。戸畑駅と店舗をつなぐアーケード街もシャッター街となっている。所在地:北九州市戸畑区浅生2-10-1720254月訪問。

2025-04-25

デパート三越の創業者・日比翁助のふるさと・久留米

福岡県南部の久留米市は、江戸時代から久留米藩有馬氏21万石の城下町として、また筑後地域の商業都市として栄えたところ。現在も人口30万人を擁し福岡県では福岡、北九州に次いで3番目の都市です。酒処であり、焼き鳥やとんこつラーメンの発祥地でもあります。また、この地は人材の宝庫で多くの有名人を世に送り出しています。ブリジストン初代社長・石橋正二郎、東芝創業者・田中久重、漫画家・松本零士、洋画家・青木繁、歌手・松田聖子、藤井フミヤなどが久留米出身です。

 なかでも注目すべきは、デパート王と称される三越百貨店の日比翁助(ひび おうすけ)です。久留米藩士の次男として激動の幕末維新に育ち、慶應義塾に学び、三井呉服店の経営を任され、遅れていた商業の近代化に大きな功績を残したことで有名です。イギリスで感銘を受けたハロッズを目指し、商品開発や仕入・物流から販売促進までのシステム作り、物資が不足している時でも適正価格を貫く姿勢、何よりも重要性を説いた人材の育成や組織作りなど、三越だけでなく日本の百貨店の基礎をゼロから築き上げた実業家です。そして、日比翁助のアイデアで設置されたものが日本橋三越本店の正面玄関にある2頭のライオン像。現代にも通用する先人の創業理念に思いをはせた商都・久留米です。添付写真は訪問時に撮影。

小倉 『兵庫屋百貨店』跡 (1926年閉店)

大分県中津にあった豪商・兵庫屋呉服店が1906年(明治39年)支店を出し小倉に進出。1916年(大正5年)に、九州では山形屋に次いで2番目の百貨店として小倉・兵庫屋百貨店を開店。名物デパートとなるも、十三代目当主・井上寿吉社長の死去による御家騒動に不況が重なり経営悪化、1926年閉店。跡地は現在魚町アーケード街にある小倉商工会館ビルとなっている。その他詳細は調査中。所在地:北九州市小倉北区魚町2-6-1 2025年4月訪問。

2025-04-24

門司 『山城屋百貨店』跡 (2001年3月31日閉店)

山城屋は1896年(明治29年)大阪で食品販売代理店として創業。国産初のソース、イカリソースを開発した会社で、その門司支店が、1934年(昭和9年)12月、経営難だった平井屋百貨店を買収して山城屋百貨店として開店。当時、国際貿易港として繁栄する門司にあって北九州の老舗百貨店として賑わっていた。やがて賑わいの中心が小倉に移るとともに業績が悪化、1994年に和議申請で再建を図るも2001年(平成13年)331日閉店。1989年百貨店調査年鑑によれば売場面積6,525㎡。198812月期売上高30億円。現在跡地には高層マンション「サンリヤン門司港」が建っている。所在地:北九州市門司区本町11番地。20254月訪問。

2025-04-21

『大丸下関店』(山口県下関市)

創業は、マルハグループが大丸と提携して1950年(昭和25年)111日「下関大丸」として開店。1959年の店舗移転拡張を経て、1977年(昭和52年)1021S.C.「シーモール下関」の核店舗として移転開業して今日に至っている。202031日に親会社Jフロントリテイリングが吸収合併して大規模リニューアル、直営店「大丸下関店」となった。直営化は地方店の継続強化策を図るものと期待されたが、直後に起こったコロナ禍で苦戦を強いられた。そして隣接する北九州、福岡地区との競争の渦中にある。一方で山口県民から愛される百貨店として行政と連携して、百貨店で初となるスタートアップ拠点「ジョイン083」を開設し多目的スペースやネット配信用スタジオを備えた起業家支援拠点を提供している。20252月期売上高74.9億円。売場面積23,912㎡。2025年4月訪問。

2025-04-17

『京成百貨店つくばサテライトショップ KEISEI & owl』

つくば駅前のショッピングモール「トナリエつくばスクエア」2階に2018425日開店。売場面積160㎡。2017年に撤退した西武筑波店の百貨店ニーズに対応して、お歳暮お中元等のギフトアイテムのほか服飾品や食料品を販売している。土曜日午前中の訪問だったが多くの来店客で周辺店の中ではいちばん賑わっていた。20254月訪問。 

2025-04-16

『西武筑波店』跡 (2017年2月28日閉店)

つくば駅直結のクレオショッピングセンターに1985年(昭和60年)38日開店。当初、自治体から出店要請があった時、多くの百貨店が難色を示すなか、西武百貨店だけが出店に応じた。西武社内でも、三越から招へいされ就任していた坂倉芳明社長の反対を押し切って堤清二会長が出店を決定した経緯はウィキペディアに詳細が記録されている。出店当初はかなりの苦戦を強いられたが研究学園都市の発展とともに売上が伸びはじめ、ようやく19972月期売上で222億円を超え、駅前のショッピングセンターも拡大していった。茨城県内でも比較的高額所得者層が多い地域の百貨店として存在し始めていたが、本体の経営不振とともに思うように業績が伸びず2017228日閉店。売場面積26,905㎡、20142月期売上高138.8億円(2014年度版百貨店調査年鑑より)。現在跡地では、ロピア、ケーズデンキ、ダイソーなどが営業している。20254月訪問。

2025-04-10

天保14年創業の老舗百貨店『岡島』(甲府市)

始まりは1843年(天保14年)1月、茶商の大黒屋として創業。1936年(昭和11年)3月1日、山梨県で二番目の百貨店として開業。地域共創型百貨店を目指し、20233月に全国的にも珍しい売場面積を14%(約4,500㎡)縮小して新店舗へ移転した岡島。雨宮社長の『既存の概念は壊さなければならない。地元と一緒に作り上げる新たな岡島になる。』との言葉には、地域に寄り添った経営でコロナ禍でも2期連続黒字を達成した経営者の力強さを感じる。玄関近くの1階には由緒ある木製看板を掲げ、広く明るい売場には全てのフロアに「プロモーションスペース」を設置して毎週のように新たな商品提供がある。NHKのインタビューでの若い市民の声「やっぱり岡島さんがないと甲府が活気づかない」、「岡島が変わることで山梨県全体が元気になっていく」が印象的。地元から愛される岡島です。2025年2月期売上高40.9億円・売場面積6,879㎡。(撮影は20234月)

『錦糸町西武店』跡 (1999年6月16日業態転換)

錦糸町駅前にある東京楽天地ビルの再開発時核テナントとして地元から百貨店出店を要望され、西友が運営する百貨店業態として1986年(昭和61年)115日錦糸町西武店が開店。しかし、西武百貨店との誤認や全国百貨店共通商品券が扱えないなどの混乱を解決すべく、1999616日にLIVIN錦糸町店に業態転換された。さらに2017年(平成29年)109LIVIN錦糸町店も閉店となり、現在は錦糸町パルコとなっている。スーパー西友は地下1階で現在も営業中。20254月訪問。

『ロビンソン春日部』・『西武春日部店』跡 (2016年2月閉店)

19851128日、春日部駅から徒歩7分の旧日光街道(かすかべ大通り)沿いに、出店キャンセルした西武百貨店に替わってイトーヨーカドーの百貨店部門としてロビンソン百貨店が開店。売場面積23,260㎡。19892月期売上高280.3億円⇒20102月期156.2億円。親会社の合併により201331日からは西武百貨店春日部店として再出発するも20142月期売上高113億円まで減少。2016年(平成28年)229日閉店した。閉店後は匠大塚が土地建物を買収し春日部本店として2016629日開店し現在に至っている。20254月訪問。 

2025-04-09

池袋 『サンシャインシティ・アルタ』

1981年(昭和56年)10月、岡田茂社長時代に財界挙げての要請で「サンシャインシティ三越」として開業。当初は、組織上も同一の三越池袋店の新館とでもいうべき売場面積26,070㎡の大型店だった。しかし当時勢いのあった西武百貨店の牙城を崩せず苦戦。19843月には売り場縮小、20039月には現在のアルタに改称された。ワールドインポートマートの1階と地下1階を使って約50店舗からなるヤング特化型の専門店を集めた小型商業施設で、小規模店やイベントスペースを使った短期出店なども積極的に取り扱っている。管理は百貨店部門ではなく不動産管理部門が担当しているが売上は日本橋本店に計上されている。なお、三越池袋店は200959日に閉店しており池袋で三越の商品券が使える唯一の店舗。20254月訪問。

2025-04-07

『三越新宿店』跡  (2012年3月31日閉店)

三越が最初に新宿へ出店したのは、関東大震災直後の1923年(大正13年)、追分交差点角に「三越マーケット」を出店したのが始まり。その後1929年(昭和4年)1010日新宿アルタ(20252月末閉館)への移転を経て、1930年には新宿通りの一等地に当時としてはめずらしかった鉄筋コンクリート8階建ての大規模な新店舗を構えて三越新宿店の営業を開始。2005年(平成17年)にはファッションビルに転換して「新宿三越アルコット店」に全館リニューアルした。その後、外部一括賃貸に伴い2012331日で営業を終了した。約80年にわたって伊勢丹とともに新宿通りの顔として存在した百貨店だった。2025年現在、跡地はビックカメラ新宿東口店となっている。

一方、新宿第一劇場跡地を買収して199110月に三越美術館を併設した南館を開業。しかし、バブル崩壊や新宿高島屋の進出などの競争激化で1999年(平成11年)731日に南館は閉店。閉店後は全館を大塚家具に賃貸し同年910日から「IDC大塚家具新宿ショールーム」となって現在に至っている。こちらは一見してかつて三越南館だったとわかる百貨店風の建物として残っている。19972月期売上高533.3億円、売場面積38,933㎡(1997年版百貨店調査年鑑)。20072月期売上高162.3億円、売場面積11,835㎡(2007年版百貨店調査年鑑)。20254月訪問。

2025-04-05

館山市 『サカモト百貨店』跡 (2005年9月閉店)

館山は古くは安房国分寺が置かれ、江戸時代初期には名門・里見氏の城下町だった房総の中心都市。その館山駅前にある房州第一ビル(旧サカモトビル)に1968年(昭和43年)10月木更津サカモト(後のサカモトそごう)の支店として開店。19693月に認可を受けて百貨店化。19818月期売上高18.5億円(1983年版小売業年鑑)。翌年に開店した十字屋館山店でも1,636㎡程度だったので、サカモトは5階建て・売場面積2,562㎡でエスカレーターや屋上遊園地を備えた房州最大のデパートだった。その後の大型店やロードサイド店との競争が激化して2006年(平成18年)9月倒産閉店した。現在跡地のビルはテナントビルとして利用されており地域振興を目指す団体によって更なる活用策が検討されている。20253月訪問。 

2025-04-03

『大森京成百貨店』跡 (1980年6月20日業態転換)

大森駅西口に1973年(昭和48年)112日開店。売場面積8,868㎡。197712月期売上高50億円。当初から日本百貨店協会未加盟店だった。かつて白木屋百貨店も出店していた大森地区だったが思うように業績が伸びず、1979年(昭和54年)イトーヨーカドーに営業権を譲渡。総合スーパー進出反対運動の中で「大森京成」の名称のまま営業を続け、1980620日改装開店と同時に初代イトーヨーカドー大森店として業態転換。2000年(平成12年)にはイトーヨーカドーがアサヒスーパードライ誕生地で有名なアサヒビール東京工場跡地に移転したため、現在は食品スーパーや専門店が入居するテナントビルとして活用されている。20254月訪問。

2025-04-02

松本市『井上本店』跡 (2025年3月31日閉店)

信州・松本を地盤とする老舗百貨店。1885年(明治18年)井上与作氏が呉服店として創業。1956年(昭和31年)県内初のエスカレーターを設置した百貨店を開業。1979年(昭和54年)4月19日、六九商店街の店舗から駅前に新築移転。新館との2館体制になる。1997年版百貨店調査年鑑によれば、売場面積11,483㎡、1994年8月期売上高202.2億円。2000年(平成12年)10月26日には東筑摩郡山形村に郊外型SC「アイシティ21」をオープン。中心市街地の空洞化が進み売上が低下して2010年には新館閉鎖。売場面積8,000㎡。2023年8月期売上高63億円(アイシティ21と合算)。経営資源をアイシティ21に集中させるため、2025年3月31日閉店した。市内店舗は約900㎡の小規模店になる予定。

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