2025年6月にいったん閉鎖したFacebook「百貨店訪ね歩き」は、新しいアカウントで2025年7月31日に再開しました。過去の訪問先データはこちらのBlogger「百貨店訪ね歩きブログ」で閲覧することができます。随時更新していきますので引き続きよろしくお願い申し上げます。なお、同名で復活させたため、検索では閲覧できない過去アカウントが出てしまいます。下記『百貨店訪ね歩き』をクリックしてご覧下さい。
Facebook⇒百貨店訪ね歩き
2024年2月撮影 高島屋資料館 |
2025年6月にいったん閉鎖したFacebook「百貨店訪ね歩き」は、新しいアカウントで2025年7月31日に再開しました。過去の訪問先データはこちらのBlogger「百貨店訪ね歩きブログ」で閲覧することができます。随時更新していきますので引き続きよろしくお願い申し上げます。なお、同名で復活させたため、検索では閲覧できない過去アカウントが出てしまいます。下記『百貨店訪ね歩き』をクリックしてご覧下さい。
Facebook⇒百貨店訪ね歩き
2024年2月撮影 高島屋資料館 |
うすいは、三井高利が日本橋に越後屋呉服店を開く11年前の1662年(寛文2年・徳川四代将軍家綱の時代)に物産問屋として創業、1938年(昭和13年)百貨店となる。1959年には丸伊デパートを引き継ぎ「第2うすい」として開店。1999年11月3日売場面積31,000㎡の現在の店舗をオープン。2003年には産業再生機構の支援を受けるが2005年に債権処理を完了。2022年は創業360周年(ホームページより)。福島市の中合閉店後は、福島県唯一の百貨店として県内全域で頑張っており、会員制のファンクラブを持つ地域密着型百貨店。2025年1月期売上119億円。当期利益で黒字化した。厳しい地方百貨店業界にあって、さらに人口減少と中心市街地の空洞化が進む郡山で商店街や行政とともに活性化に取り組んでいる。2025年6月訪問。(2024年11月訪問時から更新)
会津若松市栄町2-14番地に1971年(昭和46年)4月22日開店。神明通りを挟んで向かいにはニチイダイゼンデパートがあった。百貨店様式を取り入れた6,000㎡を超える売場面積の神明通りの中心的大型店として、最盛期には42億円の売上だった。しかし郊外商業施設との競争に敗れ売上が減少、長崎屋本体の会社更生法申請にともない2002年(平成14年)2月11日閉店。土地建物は地元の食品スーパーリオンドールが買収、複合型施設として現存している。2025年6月訪問。
1963年(昭和38年)7月4日、地元財界の共同出資で、大善デパートに次ぐ2番目の百貨店として開店した若松デパート。開店に当たっては松坂屋上野店の支援を受けたと記録あり。しかし営業不振が続き1968年には福島市の中合と提携して「会津中合」となり、1971年からは、会津地方唯一の百貨店として中心商店街「神明通り」の顔になり親しまれてきた。1993年には合併して「中合会津店」となった。売場面積6,964㎡、2007年2月期売上高28.7億円(2007年度百貨店調査年鑑)。売上減少するなか黒字店だったが建物の老朽化により2010年(平成22年)2月28日閉店。跡地は駐車場となった。所在地:会津若松市大町1-10-35。地域ニーズに応えて2013年10月25日に開店した『サテライトショップ会津』もコロナ禍の影響による売り上げ不振で2020年7月31日に営業終了した。2025年6月訪問。
1941年(昭和16年)1月大善呉服店から独立創業した洋裁店が1947年(昭和22年)神明通りに出店したのが始まり。仙台の丸光や新潟の小林百貨店が会津若松進出を目指していたが地元の反対運動で断念すると、大善が店舗を新築して1961年(昭和36年)10月、会津初の百貨店として大善デパートが開店。1963年には百貨店法に基づく百貨店となった。しかし、2年後に開店した若松デパートや神明通りを挟んで目の前に百貨店様式で開店した長崎屋との競争で資金繰りが悪化、1971年(昭和46年)6月19日福島の山田百貨店が設立させた福島ニチイ(後の東北ニチイ)傘下の「ニチイダイゼン」となる。1982年(昭和57年)7月1日「ニチイ会津若松店」(売場面積6,000㎡)として駅前に移転開業。1993年(平成5年)3月13日「会津サティ」として業態転換。会津地方屈指の大型店として賑わったが、郊外店との競争激化や建物老朽化により2009年6月30日閉店。建物は解体され跡地は駐車場となっている。神明通り店舗所在地:会津若松市中町1-50。2025年6月訪問。
昭和54年発行の岩手県統計年報によれば売場面積1,509㎡。一関の三大デパートの一つに数えられていたが衣料品を中心とした小売店。2018年10月破産申請をしたと記録あり。なのはなプラザ近くの大町通商店街には、「旧ふくはら」として3階建て店舗が現存していた。詳細は調査中。所在地:一関市大町3-53。2025年6月訪問。
地元一関市の有志により大町商店街に1956年(昭和31年)12月16日開店。「千葉久」や「福原」とともに一関の三大百貨店のひとつと呼ばれていた。1967年火災に遭い全焼、1969年(昭和44年)10月10日新築店舗で再開店。しかし新店舗投資による負担や競合店の進出で経営が悪化、1978年11月3日倒産閉店。1978年度百貨店調査年鑑によれば、1977年12月期売上高16.4億円、売場面積2,630㎡。三春屋が跡を引き継ぎダイエーに譲渡され「一ノ関ダイエー」として2002年5月31日の閉店まで続いた。建物はダイエーから一関市に引き継がれ、2005年からは食品スーパーや公共施設が入居する市街地活性化センター「なのはなプラザ」として活用されている。所在地:一関市大町77番地。2025年6月訪問。
明治時代に呉服店として創業し1952年(昭和27年)百貨店を開業。1975年(昭和50年)ニチイと提携して駅前に移転し「一ノ関ショッピングデパート千葉久」を開店。一関三大デパートの一つとして賑わっていた。昭和50年代には大船渡店を出店していたこともある。その後1997年(平成9年)8月閉店。同年9月に母体のマイカルが郊外に「一ノ関サティ」を開店させた。しかし、マイカルの経営破綻により現在はイオン一ノ関店になっている。駅前の建物は解体され跡地には高層マンションが建っている。千葉久時代の売場面積6,700㎡(昭和54年岩手県統計年報より)。所在地:一関市新大町1番地。2025年6月訪問。
1966年(昭和41年)6月10日「丸光気仙沼店」として開店。気仙沼初のエスカレーターを備えた百貨店だった。1972年度百貨店調査年鑑によれば売場面積2,943㎡、1972年2月期売上高8.1億円。1978年(昭和53年)12月にはリニューアルを行うなど市民から親しまれていた。経営母体の再編に伴ってダックシティ丸光気仙沼店、気仙沼ビブレと名称変更しながら営業を続けたが、2002年(平成14年)1月10日閉店。閉店後、地権者や元従業員などの出資で2002年5月9日新しい百貨店「イコーレ気仙沼」として開業。しかし経営悪化で2007年5月11日閉店。建物は東日本大震災の津波被害を受けて解体され現在は駐車場になっている。なお気仙沼市内には仙台の藤崎がギフトショップ気仙沼店を営業中。所在地:気仙沼市南町2-1-20。2025年6月訪問。
釜石市の中心商店街・大町通りに、1964年(昭和39年)12月20日開店。丸光としては宮城県外への初出店となった。鉄筋5階建ての大型店で、地元資本の及新百貨店とともに製鉄の企業城下町・釜石の大型店として賑わった。1980年度百貨店調査年鑑によれば、売場面積3,104㎡、1980年2月期売上高20.2億円。その後、百貨店連合を経て東北ニチイに引き継がれ、東北ニチイ釜石店として百貨店から大型スーパーへ業態転換するも、2002年(平成14年)5月31日閉店。建物は解体されしばらく更地だったが、東日本大震災後の2017年釜石市民ホールが建設されて現在に至っている。訪問時はイオンの店舗が隣接して営業中だった。所在地:釜石市大町1-1-9。2025年6月訪問。
ルーツは1873年(明治6年)6月1日創業の及新呉服店。1927年(昭和2年)には百貨店型店舗に業態転換するも戦災により焼失。1951年には鉄筋コンクリート造3階建て(延床面積2,240㎡)の店舗を新築して釜石唯一の百貨店となった。1977年12月期売上高29.2億円。売場面積1,870㎡、西武百貨店が主催するJMA(日本百貨店共同仕入機構)に加入していた(1978年版百貨店調査年鑑より)。1976年の火災で建物が全焼したことがきっかけとなり1980年(昭和55年)11月20日経営破綻して閉店。所在地は東日本大震災の津波被害で復興した街並みが大きく変わり現在は特定できず。営業当時の所在地:釜石市浜町2-1-1。2025年6月訪問。
今回の花巻訪問時に花巻市観光協会で教えていただいた百貨店がもう一つあり、当時はマルカン、花デパ、と並んで三大百貨店と言われていた高千代百貨店の跡地を訪問。現在のトクトミ・デンタルクリニックの場所に高千代百貨店として開業。デパート閉店後は上町通り商店街の店舗で呉服を扱う専門店「きものの高千代」として現在も営業中。店の方に訪ねると「確かに高千代百貨店を経営していたが詳細は分からない」とのことだった。詳細は調査中。所在地:花巻市鍛冶町2-6。現存するきもの店所在地は花巻市上町3-3。2025年6月訪問。
上町商店街が西に突き当たった場所(現在の花巻中央広場)には花巻デパートがあった。通称「花デパ」と呼ばれて市民に親しまれた。屋上遊園地や5階に結婚式場などがある当時の共同百貨店.だった。 売場面積3,113㎡(花巻商工会議所資料より)。途中でショッピングビル「エセナ」となり2010年頃に閉店。建物は解体され現在跡地は都市公園になっている。詳細は調査中。所在地:花巻市吹張町12-16。2025年6月訪問。
花巻東高校の卒業生である、菊池雄星、大谷翔平両選手の活躍を記念したモニュメントを見学することができます。場所は花巻東高等学校の野球場ネット裏で、高校に隣接する花巻市の日居城野(ヒイジョウノ)運動公園第2駐車場(無料)に車を止めて徒歩数分で到着。花巻東高校の敷地内は立ち入り禁止ですが運動公園を歩いて数分、モニュメントは目の前で見学できます。そして、なによりも感激したのは出会った高校生たちのさわやかな挨拶。もうそれだけでここに来て良かったと幸せな気分にしてくれました。花巻市観光協会サイトでも紹介されていますのでご参照下さい。高校敷地内は立入禁止なのでマナーを守って是非見学をお薦めです。2025年6月訪問。
1951年5月衣料品店として創業、1973年7月百貨店法に基づく新店舗をオープン。その後、耐震不適合と建物老朽化で2016年6月7日閉店。直後から再開の署名活動が花巻北高校の生徒たちから始まり、若手経営者(上町家守舎)たちの努力とファンの応援や寄附で2017年2月6階大食堂が復活。同年6月には1階売場もオープン。耐震強化のため、7階8階を撤去、途中階の床も撤去して対策を講じたそうです。さらに2020年に耐震工事が完了し、7月には2階に花巻おもちゃ美術館が開館した。1989年度百貨店調査年鑑によれば、売場面積5,445㎡。1988年12月期売上高42億円。なお、法人としてのマルカンは現在も継続している。マルカンビル大食堂を訪ねたのは月曜日の11時ごろ。開店直後ながら大盛況。メニューも多く、子供から高齢者まですべての世代に人気のある元気な昭和の百貨店大食堂です。人気の巨大ソフトクリームとマルカンラーメンを食しました。2階のおもちゃ美術館は家族連れで賑わっていました。1階で花巻のおみやげを格安で買うこともできました。2025年6月2回目の訪問。所在地:花巻市上町6-2。